I can change.

自己の観察力と洞察力の未熟さが悔しい今日此の頃如何御過しでしょうか?今日はしがない爺です。

<そんな私でも思うこと>
やっぱり人間ってのは、変わり続ける生き物だと思う。
初めから変わらない事など一つも無く、それどころか何が初めかすらも定かではないだろう。
確固たる自己として確立されているものは、その瞬間の陽炎みたいなもの。
生きて行く事への無条件反射のような、自己以外の総てに対しての鏡のように。
其処に映っているのは私や皆の残像や途切れ途切れの反射のようなもの。

しかしそんな中でも、自己とよばれるものを崩さずにしっかりと保ち続ける事は、けっこう価値の有る事で、
自己というものを磨いていく上では非常に有効なのである。

然しながら、自己防衛の為の一つの手法を自己だと偽るのは、
それはそれで一つの防衛手法の一つなのだろうな、とは思いながらも、
過剰なまでのソレラは時として、おそらくは本人が意図しない想定外の効果を大きく表すのである。

時には求め、時には与える。
その時により、求める存在と為り与える存在と為りその境界が限りなく薄い状態で存在するのが人間で、世界はそれら人間が複雑に絡み合って存在し、互いに需要を満たせる時は満たし、過剰供給になったりしながら、お互いに補完しあって存在しているものだと。

その人の目には貴方は自己を充たしてくれる存在として映っているのかもしれないし、只如何にかして補完してもらいたいだけなのかもしれないし、色々な理由で受容されていることもあるだろう。
それはそれで、需要する側の人間の認識でそれは貴方とは関係なく、
供給できる立場の人がどんな行動に出るかは、その人自身が勝手に決めればいい事で、まるで的違いに様々な理由を付けて過去の自己の判断を正当化するが如き行動はまったくもって意味を成さない部類の行動の中に数える事が出来るだろう。

さて、良くも悪くも相互補完の需要と供給が複雑に絡み合った世界で生きていく私達が出来る事とは、単純なことで、人と真剣に対応し、その人が出来る事を出来る範囲でして上げれば良いだけなのかと。

おまけ
今日も天気が悪いみたいですね。
雨は深い思考と感傷をもたらしてくれる換わりに、ちょっとした不便さを提供してくれていると。
たまには一人で静かに感慨に耽るのも中々なものかと。