ありえないほどに。

たとえば私が明日死んだとしても、私はとてもではないがそれでは満足しきれないと思う今日この頃如何御過しでしょうか?今日はしがない爺です。

<金泳三>
元韓国大統領が日本のテレビに出演して話していた。
「私は誰に狙われようとも、いつ死んでも満足できるほど日頃からしっかりとやっている」
まぁ大統領になるような人だから、このぐらいの事は言い放ってもむしろ支持者は心地よく聞こえるのかもしれないなぁと思う。

いずれにしても、そのぐらいの覚悟を持って日常に望めると良いのかもしれない。

<更新>
最近まったく更新しなくなったのは、書けるほど表立って動いていないから。
書きたいことは山のようにあるのだが、中々どうして、どのような形で外に向けて良いのやら判断に困っている部分も沢山あり、
でもこのまま私の中に貯めて置いてもまったく意味の無い物になってしまうので、少しずつ外に出して行こうとは思う。

<それに際して>
偽善だとか、結果論だとか、私の自己満足だとかはそんな事は今更ながらの話だからもうどっかにうっちゃって置こう。

<だって物事って>
全ては権力者の自己満足だから。
どんなに独善的な権力者だろうが、
どんなに民主的な権力者だろうが、
その、手法・意思・行動は全てがその人へ帰属する自己満足だから。
むしろ自己満足に達しないほど、手法・意思・行動が伴わないような奴はそもそも自分の夢を語る資格は無い。

みんなの夢として公然と語られているような理想も、所詮全てはそれに属する人たちの曖昧な相互認識の基に不明確な形で意識に浮かんでいるだけの物に過ぎないから。

それを夢から現実へと持ってこれる、力(手法・意思・行動)が無い人は、夢を語っても挫折するだけだから語るべきではない。

語るべき資格を持っている人は、全ての責任を、夢を語るだけの代償を負担する覚悟を持っている人だと思う。

私も含めて、
私は夢を語る多くの人を見てきたが、その殆どの人は、語った夢の大部分を実現することが出来ないまま過ぎ去って行くことが多かった。
悲しむべき事に、未だかつて満足足りえた人など居なかったのでは無いだろうか?

もう話がぐちゃぐちゃになりそうなので、まとめ。

<まとめ>
責任(意思)を持てないのであれば、夢は語るべきではない。
夢を語りたいのであれば、言いだしっぺの責任として、その全ての責任を負う覚悟が必要だ。

私はそう思う。