考え直した

石割桜が満開になった今日この頃如何御過ごしでしょうか?今日はしがない爺です。

<色々と考えた挙句>
改めて私が怒る事の不毛さを認識した訳です。
ガキ相手に真面目になってもね。
彼らは彼らなりに一生懸命なんだろうし、
温い環境でしか育ってない訳だし、
自分たちのミスとは言え人数が少ないと決まった時からガチガチの義務感に襲われていたとしても、
義務感に襲われつつも漫然と過ごしてきたとしても、
その為に最低限必要な技術が身についていなくても、
その技術の欠如が現在の停滞の根本の原因だとしても、
…彼らが選んだ事ですからね。

怒りでも悲しみでも厭味でも羨望でもなく、客観的に見ればこれが彼らの現在の限界なんだろうな、そう感じてしまったので、
諦めでも無いのですが結局の所はいくら技術や知識が提供できたとしても、彼らがそれを必要としない限りはまったく無意味なものなんだなぁと。
去年の流れを善しとした人達が居て、
その流れを激しく否定した私が居て、
その2つが絡み合った結果として今があるとするならば、その責任の一端は激しく私に有る訳で。

無力感に苛まれつつも、可哀想な彼らに同情してしまう。

可哀想じゃないと言う人も居るかもしれないが、致命傷を負うことを回避できなかった現状は、正直なところ夢も希望も無い。
長年やっていればこんな年も有るさ、と言ったとしても彼らにとってその言葉は何の意味も無く、彼らの前にはただ今という時間が有るだけで。
無常なまでに平等に毎年同じ時間が与えられ、何を成したかだけが残るんだなと。

思考がぐるぐる回ってまとまらないからここで打ち止め。

<責任>
って何なんだろう。
行為に対しての賠償義務ではないと思う。
課せられた成すべき勤め。つまり行為そのものの事か?
課せられた、だと義務のようなニュアンスも取れるが、義務は倫理観であり成すべき事への拘束性だろう。
結果に対して負うモノであるが、負うモノ事態は義務や償いであって、責任は負うという事実や行為そのものの事か?
「責任を取る」とは行動に対しての対価を払う事であり、取る対象は対価で、取る事自体が責任?
責任を感じないまま対価を払う事もあるな。「感じない」自体は認識の問題であって、やはり対価を払う行為が責任を果たした事に成り得るのか?

字数が足らん…そして思考が追いつかないから、今日はここまで。