マジ寒い

岩手は絶賛秋雨中な今日この頃如何御過ごしでしょうか?今日はしがない爺です。

<なんと!!>
素晴らしい商品を発見しました。
gatya.jpg
詳しくはこのサイト
なんつうか・・・、インパクトが強すぎてコメントが見つかりません・・・。
そして、缶の後ろにはムックも居る模様・・・。
流石は世界に誇るべきキャラですな。
宇宙旅行までしているキャラですから、茶摘ぐらいしてても当然だし、オリジナル飲料を作っていても不思議じゃないですよ。

<あと4日>
あと4日で大学祭です。
私の目下の心配事は、当日までに研究のデモの準備が終わるのか?です。

まぁ、あとは色々と有りますが、書いちゃうと不味いのかなぁとか思ったり・・・?

あ〜でもパンフが公開されている以上、そこのソースを元に突っ込むのは大丈夫なのか?
とりあえず、グランドフィナーレがとても楽しみですよ、えぇ。

私の今回の大学祭の予定といえば、同窓会関係が1日目に入っている以外は、
全て研究のデモです。
どこの馬鹿が張り切ったのか・・・空気読めてない教員が大学祭の時に、地域連携研究センターでデモやって、しかも評価まで取れとか言い出しまして・・・。
例年のオープンスクールならば、両日10:00〜12:00までの予定で済むし、人数も労力も大したことは無いのですが、
今回は両日終日デモ&評価。
いや〜、大学祭は見るなと?
つか、スタンプラリーがセンターに無いらしいので、両日で何人の人がセンターまで足を運ぶのかは甚だ疑問だ。

まぁ、頑張るしかないけどね。
あと、4日。ギリギリ間に合うかどうかのタイミング・・・。

<詩>
今朝のとくダネ!で詩人の茨木のり子の特集をやっていた。
2006年2月19日に79歳で亡くなったが、私たちの世代なら彼女のこの詩を小学校か中学校で目にしたはずだろう。


「わたしが一番きれいだったとき」

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった 

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね

テレビで見るまではずっと忘れていたのだが、これを見せられた瞬間に思い出したよ。確かに習った。
なんつうか、義務教育ってのは贅沢だなぁと思うのは、この年になって改めて習ったものを見返してみないと感じることが出来ないんだろうなぁ。
今の私でも理解しているとは言えないのかも知れないが、
でも詩なんてものは、その時々のその人それぞれが、その時感じたものが全てだと思うから憚る事無く言おう。

なんて素晴らしい詩なんだ。
戦争の悲しさを詠う詩として、私は子供の頃に習ったのかもしれないが、
今読んでみるとその解釈は間違っていると感じる。

この詩は、この後で紹介する詩と一対になって、初めて完成する、と思う。
自分を見つめる。
たったこれだけの事がどれだけ大切なことで、しかもどれだけ難しいことなのか、今だったら私にも少し分かる気がします。
詩人という分野の人は、内省的に思考する分野の人間なのかもしれません。

研究分野に居る人間の多くも似たような思考パターンに陥ることがあるそうです、悪い意味で。

研究分野を目指している学生は多くの場合、博士課程に進みます。
博士課程に求められている規範とは、
自分でテーマを決め、自分で問題点を探し、自分で解決すること
です。
字面にすると何とも当たり前のことのように思えますが、これが非常に難しいわけです。
(かく言う私も、ときどき内省のドツボに嵌ることが有りますから・・・)

博士課程まで進めば、それこそ自分の研究に関係する論文とか様々な情報を山のように頭に突っ込んでいるわけで、多少なりとも推し量ることが出来るようになってくるわけです。
なんな時にふと頭をよぎるのは、「自分の不甲斐無さ」、なのです。
研究が順調に進んでいれば良いですが、当然の如く停滞している時期もあるわけで、そんな時に魔が差すんです。
「オマエハ、ドレダケドリョクヲシテイルノダ?」と。
自分のことは自分が一番分かっている気がしていますから、
自分が1日でどれだけの時間を研究に使っているのか?が分かるわけです。
上手く行っているときは、何時間ぶっ通しで作業してもストレスは溜まりませんから、それこそ体力が続く限りは作業が出来る訳ですが、
上手く行っていないときは、作業自体がストレスですから、集中して出来ないし、無駄なことに使っている時間が増えるわけです。(本当はストレス解消の、頭をクリーンに保つために必要な時間ですが・・・)

出ない成果、作業に集中できない自分、作業とは直接関係ない事に費やす時間の長さ・・・全てが自分の首を絞めてきているような間隔に陥り、
自分自身を否定し始めます・・・。しかも強力に。

まぁ、これを解決するには、現実と適当な妥協点を探して折り合いをつけながら地道に作業するしかない訳ですが・・・。

話は大きく脱線してしまいましたが、
そういった意味で、内省的なこれらの詩は、今の私に非常に響くわけです。

では、最後にもう一つだけ紹介を。これも素晴らしい詩ですよ。
ちなみに私はこの後にでも図書館で詩集を借りに行こうかと思っています。ではでは。

「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ