文化的差異がパッシングに発展することの愚かさ

厳しい冬は東北人の精神的特色の根幹を為していると改めて認識する今日この頃如何御過ごしでしょうか?今日はしがない爺です。

西遊記の映画化で中国でパッシングが起きている件について
家に帰ったり他の事に夢中になっている間に、世事ではこんなことが起きていたらしいですな。
んで、Yahooニュースからのリンクにこんな記事もあったわけですよ。

「西遊記」騒動に思う:文化的な距離が近いため…- サーチナ・中国情報局(3日)

冒頭を引用

香取慎吾氏主演の『西遊記』で中国の言論界は揺れている。中国の人々にとっては中国文学の至宝である「西遊記」を冒涜されたと感じているようだ。特に三蔵法師(中国では唐僧)を演じるのが女性であるということは、妥協できないという。

  この感情はよく理解できる。もしも中国で忠臣蔵が制作され、大石内蔵助が女性だったとしたら、私もいささか戸惑うだろう。

で、これを読んで感じたことは、
そう、私たちは、戸惑うのである。

文化的側面の解釈は、解釈する主体者が帰属する文化的影響を受けるのは当然のことで、
古今東西、全ての解釈は誤解と偏見に満ち満ちている。
日本では「楊貴妃はきれいな顔で豚を食い」という川柳もあり、
欧米人は「日本人は全員が空手ができる」と本当に誤解している人も居るかもしれないが、
だからと言って、その解釈自身はそれ以上の価値観を持たず、馬鹿にしているわけでも貶している訳でもないのだろう、と思う。
中国人が「日本人はすべからく鬼だ」と教育を受けていても、
日本人だって「鬼畜米英」と教育していた時代も有るくらいだしね。

で、何故、日本では三蔵法師は女性なのか?
それはまず、夏目雅子が演じた三蔵法師像が大きな影響を与えているだろうとは思う。
が、何故そのような配役であったかを考えてみると、
至極単純な解釈ではあるのだが、
三蔵法師の慈悲と愛情の姿勢が、日本人的解釈では女性像と大きく重なったのではないかと思う。

明治の廃仏毀釈で、日本人の宗教的特色は大きく変化し、
日常生活において仏教的意味合いは大きく薄れ、それと同時に国家神道で再統合された時代があった。
そして戦後、国家神道天皇人間宣言と共に解体され、
それ以降から現代まで、日本において宗教的である全てのものはバラバラに解体され、様式のみを残すだけとなり、精神的に深く根ざした宗教的な影響は薄くなっている。
天皇誕生日はただの祝日となり、
クリスマスとバレンタインは恋人の記念日となり、
お盆は実家に帰るための社会装置となり、
それ以外にも宗教的本質は消えかかっているだろう。

そんな中で日本人は、三蔵法師の慈悲と愛情のみを汲み上げ、宗教的意義は理解できなかったと言えるだろう。
そして、慈悲と愛情は、女性像と重なり、時代の名優にオーバーラップした。

もっとも、慈悲と愛情が女性像と重なったとしてしまうと、ジェンダーの思想に引っかかりそうなものだが、
私から言わせれば、性差を平たく埋め立てる行為こそ、ジェンダーを冒涜していると思うのだが、
その話は一旦おいておこうね。

んで、長々と書いたわけだが、このコラムのこの部分こそ真っ当な意見だと思うわけですよ。

作家が書く作品を作家と同じように理解する読者はどこにもいない。作品が特殊で、ある特定の文化圏の人々しか共有できないものだったとしたら、そこには普遍性がなく、何世紀もの時間に耐えることもできない。そして呉承恩の「西遊記」は時を越えて世界中で受け入れられる稀有の小説である。時代や文化が変われば、作品の見方も当然変わる。そして変化しながらも脈々と受け継がれていく。これこそ作家冥利に尽きると私は思う。

源氏物語を主人公を女性にして映画にしても、それは表現活動としての文化的解釈の相違というだけの問題である。
何をどう解釈して表現しても、問題とされないのが「表現の自由」なのである。

赤飯を甘くする家庭があっても、それはその家の文化だし、
ご飯を炊くときに酢を入れる家庭があっても、それはその家の文化なので、
私は文句を言えないのである。(私の好みではないので、そんなものは絶対に食さないがね。)


ところ、昨今は、面白い現象が起きてきている。
グローバリゼーション(地球規模化)である。

いまや、地球は一緒くたになり、文化は交じり合い、相互乗り入れ可能な時代になった。
その先頭を切って、いまだに突っ走っているのは経済である。

垣根は崩れ、偏在化が加速している。

んで、これまたYahooニュースに登場していた話題から引っ掛けた話。
タンザニア大使が抗議!「ダーウィンの悪夢」アフリカのイメージ壊す

んで、問題とされている映画はこちら。
ダーウィンの悪夢

"弱肉強食"、"適者生存"というダーウィンの言葉から、グローバリゼーションを切り込む作品、というふれこみだ。

映画は見たことが無いので何とも言えないが、監督のインタビューからの抜粋を見てもらいたい。
何が言いたいわけではないが、私はこの監督のインタビューが心の琴線に触れたので、
まぁ、載せておこうということですな。

では、今回はこのぐらいで終わりにしましょう。ではでは。

生命にとって、1番危険な懸念は知らないこと、無知だと思います。私は知的な戦いとして、このグローバリゼーションというコンテキストの中で、この仮面を剥ぐ、ということを使命に感じています。

(中略)

ボイコットがあったということを申し上げましたが、映画を理解する際に誤解が生じたのだと思います。とても残念なことに、そういう誤解はタンザニアでも起こりました。タンザニア政府はこの映画を観て、懸念を感じ、大統領は国民に対して、街頭で映画を反対するデモをするように呼びかけました。ですが、デモに参加した人たちは実際には映画を見ていないと思います。ヨーロッパではこの映画の結果として、魚のボイコットという誤解が起きました。タンザニアではこの映画自体をボイコットするという誤解が生じてました。なにかをボイコットをするならば、愚かな行為をやめるべきです。それが一番大切です。

(中略)

来日してから多くのインタビューを受けていて、必ず出る質問がふたつあります。ひとつは「この映画では“飢餓”を描いているが死に掛けている人はいない。武器の話はしているが武器自体は映画に出てこない。カラシニコフの映像は出てこない。証拠があるのかどうか見せてほしい」というものです。
もうひとつの質問は「(アフリカに)色々な問題があることは映画を観てわかりました。ではどうしたらいいか教えてください」というものです。
私がアフリカに行って映画を撮ったのはアフリカで起こったことを証明するためではありません。皆さんが既に知っていることしか、ここでは謳っていないのです。「子供が飢餓で死んでいる」「何千トンという武器がこの地域に運ばれている」「エイズで人が亡くなっている」ということは誰もが知っていると思います。私の役割はそれの証拠を探して、証明することではありません。エイズらしき人を病院に連れて行って本当にエイズかどうかを調べる、ということは私の仕事ではありません。みんなが知っている情報・知識を違う形で表現することです。そして、みなさんにより深く理解していただくことだと思っています。
ふたつめの質問ですが、私は解決法を皆さんに教えるためにこの映画を作ったのではありません。ひとりひとりが未知のジレンマの前にいて、それぞれに考えてほしいと思います。問題の本質を見せて、その本質を観客に感じ取るようにしているのです。この映画を観た人は心が急くでしょう。その後、もっと理解したいと思い、何をしたらいいのか答えを見つけたいと思い、誰かに伝えたいと感じると思います。私自身は偽預言者のように「私についてくれば、すべての問題は解決する。アフリカでこうすれば良いのだ」ということをお伝えしているのではないのです。

(中略)

「客観的にこの映画はアフリカの現実をそのまま映し出しているのですか?」と聞かれれば「NO」と言わざるを得ません。これは「アフリカの現実をそのまま」というのではなくて、「私の目を通して見たアフリカ」が描かれていますから。