実感体感触感視感

アレはまさしくヒヨッタ爺の見本なんだろうと思いながらも生活している今日この頃如何御過ごしでしょうか?今日はしがない爺です。

<体調>
イイですよ。
メシ食う必要もなく、煙草と麦茶と、適当な雑食で生活しています。
最近はあったかくなってきたので、家で寝てても死にそうになっていい感じです。
夢と現実の境目がだいぶゴッチャニなってきています。

<ムルデカ>
フィリピンの言葉で独立と言う意味だそうです。
第2次世界大戦の最中日本はフィリピンを占領していまして、
その時の政策の一つとして、彼らは日本軍が当時掲げていたお題目である八紘一宇の目的の元、
原住民(フィリピン人)の植民地支配からの開放を行いました。
初期の目的であった開放は日本軍の進駐によって達成されはしましたが、それだけではいつ戻ってくるかもしれない列強に対抗できないと、
当時長い植民地政策の中で戦うことさえも選択肢の中に入っていなかった原住民に対して、
教育を行いました。
主に軍人としての教育だったそうですが、
フィリピンの歴史、世界情勢、等々様々な教育が行われました。
このような、支配下の住民に対して教育・育成を行うことは当時の植民地政策の中では考えられないものであったようです。
支配下の住民に対して独立を促すことは自分達の首をしめることになるからです。
この、教育は効果をあげました。
日本の敗戦後、フィリピンは再びヨーロッパ諸国が再植民地化を目指して進行してくることとなります。
そのとき、中心となって独立戦争を行ったのがこの教育を受けた方々だったそうです。
また、多くの日本人兵も彼らと行動を共にしました。
当時日本兵の扱いは、連合軍下の管理にありその類への戦闘の参加は違法でした。
しかしながら、多くの日本人兵士がフィリピン独立の戦争に参加しておりその総数は2000人に上るといわれています。
日本への復員も始まっていた時に、彼らは国に帰ることを選ばずにフィリピンの独立にかけたどうです。
そんな彼らは今、多くがその戦闘で死亡し、フィリピンの国立墓地に眠っているそうです。
これと同様に、多くのアジア諸国は第2次大戦を契機として次々と独立しました。
アジア地域の高齢者の方には日本語が話せる方が多いそうです。

私たちにはなかなか理解できないことば、ムルデカ。
当時の日本人兵は何に賭け、どんな気持ちで戦ったのでしょうか。