今日も生きている

悔改めて頭を丸めたわけではない今日この頃如何御過しでしょうか?今日はしがない爺です。

<発見>
うむ、夏は暑いものと見つけたり。

<最近>
やたらと夢を見ます。
それこそ毎日のように、ちょっとした昼寝でも、転寝でも、ほぼ見ますね。
しかも、内容がもう泣きそう。
それでも、いろいろ発見があって、
私はこう思っているものなのかと参考にしながらも、
夢を見るたびに泣きそうです。

<そのわりには>
けっこう楽しみにしてるんですよ、夢。
色んな人が時間と空間を飛び越えて登場するんで。
あちゃー、見たいなことも在るのですが、けっこう出ている面子がウケル。
そんな感じで。

<おもふ>
我思う。
当事者って者はやはり当事者なので、客観的な視点など到底無理なんだと。
もし、客観的な視点だと言い張るのなら、それは全くの勘違いで、
客観的に考えるように努力してみた主体的見解、の域を脱却出来るものではないと。

私たちは確かに、愚かで無知で利己的かもしれない。
しかしながら、世の殆んどの客観的見解もまた、その人本人の主体の中から抜け出たものではないことも又事実である。

では仮に客観という立場を、その見解の立っている事象から抜け出た位置からの視点だとすると、
そう仮定すれば、あるいはその見解も客観的なのかもしれない。

しかしその主体性を抜けることは非常に困難であり、本人の自覚は関係せず存在し続けるから難しいのである。
一度囚われた立場は、その心の奥深くを捕らえその言動に永く深く影を及ぼし、本人の意図するしないに係わらず捉えられ続ける。

そこから抜け出す術が有るとしたら、それは意識することだと思う。
自分が意識するしないに係わらず、自分の思想の多くは何らかの事象の主体的部分に居る事を、
意識している、それが最低の一歩になるものだと思う。

私はまだ幼く経験も乏しいので、多くのことに囚われ縛られ悩まされている。
しかしながら、自己擁護なのかもしれないが、それでこそ若き時を生きている自分なんだと認識している。

もっと巧く深く考え最良を見つけ出し明朗に生きて行ければと思うことは、それこそまさに常なのだが、
そうではなく、
とても下手で浅く愚にもつかない、そんな自分もまさに自分なのだなと。

もっともっと賢く深く明瞭な人物になって行きたいと、切に願う次第です。

そんな感じで。