難しい事は良く分からんが・・・

睡眠する時間がもったいない今日此の頃如何御過ごしでしょうか?今日はしがない爺です。

<たばこ>
解禁。旨い。心臓がバクバクいった。

<難しい事は良く分からんが・・・>
私は全ての物事は連続性を持っていると思う。
全ての事象や空間は今この瞬間を中心とした相対的な関係性である。
連続性を持つ世界に対して、悲しい事に私たちは今と言う瞬間しか感じる事が出来ないが、それでも時間と言う概念で表すならば、少なくともそれ以前にも私たちは存在していた事は確かだ。
そして当たり前のように、明日という時もいづれは訪れる。

今と言う瞬間を絶対的なものだと捉えたとしても、それすらも最早相対的な思考の上に成り立っているものなんだと思う。

反省による因果関係の検証は無駄か?と言われれば、それはその人がどんな反省をして、それをどう生かしたのかによって変わってくると思う。

ただ少なくとも言える事は、まったく同じ事象など起きやしないのだから、反省から得た因果関係がピッタリと適用できる状況など無いと言う事。
でも、反省がまったく役に立たない訳ではなくて、類似性の高い事象同士であればその背後の因果関係も類似性が高い場合が多い、と私は考えている。

つまるところ、洞窟の壁に映った影法師を追っているのは確かだが、時としてその影法師は同じように見える形であったり同じように見える動きであったりする。そしてそういった時に人間は、影法師の次の形や動きを予想する事が出来るということ。

で、ここで話題が大きく変わる訳だが、何についてどんな反省するかって問題が出てくる。

これはまさしく、その人が何を大切にしているかによって変わってくる訳だが、さらにそこでその人の立場によって色々な縛りが出てくるのだと思う。

何故に縛りが出てくるかと言えば、それは互いに立場が違うからであり、
例を挙げるならば一般国民と総理大臣では当然立場が違うから、当然それぞれが出来る事や配慮しなければならない事が違うのである。
(何故に立場が違うのかと言われれば、大雑把に言えばそういう社会システムを使っているからであり、また、個々に対して起こる事象もそれぞれ違うからであろう。)

ここまで来ると今度はその立場をどう認識し、また、何を縛りとして認識するかと言う問題になってくるが、
字数が足りなので続く。