秋雨前線と台風のコラボレーション

予定がミチミチな今日この頃如何御過ごしでしょうか?今日はしがない爺です.

<続・妹が>
以前書いたように鬱気味なのだが,本格的に登校拒否気味に.
まぁ,教員との関係とか研究のこととか就職のこととか,様々なことがミックスされて今の状況が生まれているので,すぐさま解決とは行かないのが現状.
今日あたりから若干精神状態も回復し始めており,主な精神的負荷になっている教員がらみの問題を解決する方向で動いているようだ.

兄としては,ただただ話を聞いて見守ることしかできず,彼女自身で乗り越えるしかないので,支えはすれども邪魔にならない程度に気を使いながらの生活ですな.

幸いにして我が家の連中は,長男が私みたいな人生なおかげで,非常に自由奔放に生き方を許容してくれる.
今回の件も,彼女の人生だから自分で解決できるようになるまでジックリ待とう,という方針を固めたようだ.

やはり,(私もたまにそうなるが)若いうちは自分自身の理想と現実の狭間でもがきつつ,自分の心を磨いていくのだろうなぁと,感じた.
そんな兄の心境です.

<継承と自主性と自主性という名の自己保身>
あいも変わらず下らない話にお付き合い頂こうかと思います.

自分たちが捻り出してきた様々な手法を如何にして継承していくのかというのは,自分たちがOBと呼ばれる立場になった人間ならば誰しもが苦悩する大きな問題なのではないでしょうか?

私も,先輩方から沢山のモノを教えられ学び,さらに自己研鑽した成果を僅かばかりではありますが其処に積みまして,後輩に引き継げたらと思っております.

さて,常々話題となりますが,大学祭として積み上げたいノウハウが積み上がらないことは,何が問題なのか?
要因は様々ありますが,今回は,継承する責任は誰に有るのかという話題に絞り込みましょう.

はてさて,思い返してみれば色々と難しい問題です.
私は比較的に先輩方との関係は良好だったので苦労せずに受け継ぐことができましたが,全てを受け継ぎ切れているのかと言えば,合格点ではないのかもしれません.
一方で,OBという立場でも長いことやっていますが,私の全てを伝え切れたとも言えないのかもしれません.

では,伝える側と伝えられる側の2つに分けたときには,どちらに多くの責任が有るのかと考えれば,それは間違いなく伝える側に多くの責任があるのだと思います.
そもそも,受け継ぐ必要性が無いとか,それが見えていない現役にとってみれば,おそらくOBの伝える多くの事は現役にとって耳障りの悪い話題となることだろう.
しかし,私に言わせればそれは仕方が無い話である.
何故なら現役には見えていない世界だからである.
OBとしての世界を一度でも経験しないと見えない世界が存在するのは事実である.
それは,現役時代に考えることは到底困難な領域なのだが,それが大切だと,それが苦労の源だと,感じるからこそ,OBは現役に伝えるのである.現役には見えない領域を見ることが可能な位置に居るからこそ言えることなのである.

しかしそこで問題となるのは,自主性の問題である.
得てしてOBが到りそうな思考として,「やる気のある後輩なら聞きに来るはずだ」と言ってしまったりする.
しかし,上でも書いたように,現役とOBで見えている世界が違うことを考慮すると,
「やる気のある後輩を生み出す」=「聞きに来ないのは当たり前である」
という前提をOBが理解している必要があると思う.

この前提が無い場合,OBとしての自主性を放棄して,後輩に責任転嫁をしていることに為らないだろうか?

確かに,後輩も積極的にOBを利用することで自分たちの理想を達成するだけの貪欲さが欲しいが,
そういった貪欲さが必要であり,それを現役が持っていないのであれば,
まずはそこを目覚めさせることが,OBの為すべき仕事の第一歩になるのだと思う.

情熱は伝播するものである.
つまり,現役から情熱が感じられないのならば,それはOBに情熱が無いという事を表しているのだ.

私たちOBは,現在まで様々な形で資産を残してきたが,それらの多くは企画書やマニュアルや或いは現物としての看板やステージなど,不動資産的な現物資産だった.
そういう意味で考えれば,現在問題になっているノウハウや思想的資産などは,無形の動産的資産と言えるだろう.
そのような有形・無形の資産はそれぞれが独立して成立しえるものなのだろうか?いやそうではない.
これらは,車輪と,それをつなぐ車軸のようなもので,それぞれが単独では車は前に進まない.

データと情報とに違いがあるのと同じように,有形無形の資産も,その有り方によって意味が違ってくるのかもしれない.
有形資産がどうとか無形資産がどうとかでは無く,そもそも,資産足り得ているのか?

人間は共に仕事をし時間を共有することで,有形無形に関わらず様々なものが伝播していくが,
有形資産すら活用できないほどに,
現役には何も伝わっていないのではないだろうか?

私たちが最低限引き継ぐことが出来たと思っている有形の資産ですら,
現役にとってみれば,
「そもそも意識に上がらないほどのガラクタ以下の存在ではないのか?」

私たちは本当の意味で,現役と共に仕事をする時間を作り出すことが出来ていただろうか?何かを伝えることが出来ていたのだろうか?

只々漫然と,仕事をした気になっていながら,その実,単に物理的空間に一緒に居ただけ,にはなっていないだろうか?

そもそも彼らに自主性云々と言えるほど,私たちは彼らに何かを与えていないのではないだろうか?
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他人の襟を正す前に自分の襟を正せ,というつもりは無いが,
自主性の無いOBが,後輩の自主性に責任転嫁するのは,ただの手抜きである.

伝わるものではなく,伝えるものであり,
伝えたものを,どのように使うかは,使う人間の責任で判断するものである.

自主性という名の責任転嫁で,
現役の意思という名の放棄をすることで,
現役を尊重するという名の自己中心的思想で,
現役から真の意味での自由を奪っていないだろうか?
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今という時は,決して過去と乖離しているものではなく,
さらに,不可逆的一方向性を持っているわけでもなく,
昨日の私は今日の私であり,今日の私は昨日の私であるのと同じように,
器は変わらないのである.

私たちは何をしてきたのだろうか?
私たちは何をしていくのだろうか?