激雪

嫌味なほどに集中的に雪が降った今日この頃如何御過ごしでしょうか?今日はしがない爺です.

<激雪>
今年は例年になく前線が圧され気味だった冬将軍も,
ここ数日は今までの劣勢が嘘の様に勢力を盛り返し,
これ見よがしに雪を降らせております.

目測では一気に30センチほど降ったように感じましたが,
皆様は如何だったでしょうか?

私は,昨日の地吹雪的な天気にやられ気味です・・・.
まぁ,この人間が凹むぐらいの勢いで降ってくれるからこそ,
自然の偉大さが感じられるものだと,むしろ好ましく思っていたりもします.

<個人的に>
何か一昨日は極端に凹んでいたわけですが,
現在は持ち直しております.
問題だったやる気の無さも,
自分自身と折り合いをつけながら,騙し騙しやっております.
まぁつまりは,落ちきったので上がってきました.

大学1年生の頃から,かれこれ満7年ほど日記を続けているわけですが,
続ける最大の意味は,こうやって凹んだ時に効果を発揮するからだと思います.

自分自身のモヤモヤとした感情を,自分の語彙の可能な限り文章に変換して記述することは,
私自身が他人の悩み相談にのる時の,私自身を演じる作業なのだろうなぁと.
話すという行為と,書くという行為の違いはあれどね.

不定形でモヤモヤとした形容し難い感情とか,
大きな怒りや悲しみや,当然楽しさなんかも,
全ての感情はそのまま体内に留めておくと人間には気持ち良くないのかも知れませんねぇ.
言語や文字に変換して体から外に出すことで,形を与え,符号化する.

思うに人間ってのは,考える術を身に付けてからずっと,
すべからく不定形なモヤモヤとしたものが嫌いになってしまったのである.
表現できない事が,思考のラインに乗せられないものが嫌いなのである.
だから,悩み相談ってのも,
そういったものを解体していく作業なのだろうと思う.

そういう意味では,愚痴と悩み相談は大きく意味が異なる.
(時と場合によっては両者が混在するが)
愚痴は,自分自身の中で(偽りであっても)整理が出来ていないと出てこない.
だから愚痴は放っておいても相手の口から出てくるものだ.

その点,悩み相談は中々一筋縄ではいかない.
本人が不定形のものを言語に変換する過程で苦労する.
苦労しないなら,それは悩みではない.(愚痴に近い,共感を望まれる類のものだ.)
多くの場合,それは「言いにくい」という感覚に分類され,
さらに「対話の相手が相談するに足る人間か?」という錯覚に変換されるが,
本質的には,もやもやを分解し符号化する過程そのものに違和感を感じているだけで,
実際のところは誰でも良いのである.
(それでも,相手によるとするならば,それはそのモヤモヤの過程で戸惑っている自分に適切に対応してくれる人,ということなのかもしれないがね.)

悩み相談において一番大切なことは,「テンポ感」や「止まらないこと」である.
とにかく如何ともし難い感情を抱えている人間を相手にするわけで,
更にモヤモヤを整理整頓する訳だから,とにかく停滞しがちになる.
停滞するのは当然で,本人の中で停滞しているからこそ悩みなる.
その停滞を交通整備するのが,悩み相談の過程なのだから,
いちいち止まっていては駄目なのだろう.
間違った方向に整理してしまうのも考え物だが,
そもそも本質的に何が間違いで何が正解なのかなんて誰が知っているというのだろう.
結局は,他人を媒介として自分自身が望んでいるゴール地点に行くだけのことなのである.

ちょっとずれたが,テンポ感の話.
悩み相談のテンポ感の重要性は,非常に大きい,と私は考えている.
そもそも正解なんて誰にも分からず,むしろ本人のみぞ知る世界なのだから,
分解して符号化した言葉が,感情の適切な置換になっている保証はない.
しかし,ここでは一度何かに変換することが大切なのだろうと私は考えている.
モヤモヤとしたものの中から,とりあえず一番近くにある掴みやすものから脳味噌の外に出して,
それを足がかりに芋づる式に全てを引っ張り出す.
表現の適切さなどは,いちど形を定めてから再考すれば良いだけのはなしだ.
つまり,話すこと自身がとても大切なのだろう.

哲学者のヴィトゲンシュタイン
「私の言葉の限界が、私の世界の限界である」
と言ったそうだ.
まったくその通りだと思う.
言葉を当てはめる作業というのは,自分の解釈できる世界観を広げる作業ともいえるだろう.

「この世に不思議なことなど何も無いのである」
だ.

話の大本に戻るが,私が日記を続ける一つの理由は,
自分自身の思考を言葉にすることで再認識しているだけに過ぎないのだが,
それが大きな理由であることは事実だと思う.
内省や感じたこと,思想,理論.
人生の25%もの期間を記し続けたこの日記は,
ある意味で私自身そのものなのかもしれない.
ここに延々と書いてある相談行為を,日記という自分自身の鏡相手に,
延々と繰り返してきたのだろう.

そんな訳で,強引にまとめると,
元気とまでは行かないが,ある程度復活したと,そういう話である.