<LiveEarthとか24時間テレビとかね>

LiveEarthってのは、2007年7月7日に世界中で行われたライブイベントで、地球温暖化の危機解消へ向けたプロジェクトが手がけたイベントだとか。
24時間テレビは言わずもがなの日本テレビの大型番組。


んで、昨日NHKでLiveEarthのメイキング的な番組が放送されていた。
そこで、ライブ会場の1つだった京都のステージに出演してたマイケル・ナイマンってピアニストが、
インタビューに答えていた内容が、非常に私の見解に近く、かつ衝撃的だった。


彼曰く、
このコンサートで何が変わるとも思っていない。客はマドンナなどの出演者が見たいから来るんだ。
問題の解決のために行動しなければならないのに、僕はただピアノの前に座って弾くだけだ。
でも、僕の曲を聴きに訪れた人が環境問題を自覚してくれるのであれば、コンサートを通じて貢献しているのかもね。
(若干意訳が入っているものの、2行目からはほぼ原文のまま)


出演者でこのコメントが出来ることに脱帽した。これこそがプロ根性だと思う。
日本人の出演者はみな、ありきたりで無難な、つまらないコメントをしていたことに比べると、
彼の見識の高さが浮き彫りになると思う。


ちょっと面白かったのは、このキャンペーンではハリウッドの有名人が出演するCMがあって、
そのCMでは、電気をこまめに消そうとか、近場は車じゃなく自転車で行こうとか、分別やリサイクルをしよう、
ってメッセージがその効果と共に流れるんですよ。○人が○kmの通勤を自転車ですると二酸化炭素がこれぐらい減ります、とかね。
んでも、このCMの時間に○人がTVを消すと、二酸化炭素がこれぐらい減ります、とかをやらないあたりが、笑える。(余談)


んで、ちょうど同じタイミングで18・19日と24時間テレビが放送されている。(これを書いている現在も)
いま、日本で放送されている番組の中で、これほど私が嫌いな番組は無い。


興味深くないんですよ、バラエティーとしても報道としても。
この放送はどんな位置づけで作られているのかが全く分からない。
最近の王道パターンは、始ってすぐに巨人軍の野球 → 感動系ドラマ(司会出演のパターン多し?) → 24時間系チャレンジ → 深夜の若手芸人のネタ見せと若干のお色気 → ひたすら感動系で力押し → 最後は歌押ししながらマラソンのゴール待ち、そして最後にサライ


番組が始った当初は、相当の意義性が有ったのかもしれないが、いまや完全に形骸化でしょ?
紅白歌合戦が視聴率が下がっているのと同じように、24時間テレビも視聴率の低下から、最近はジャニーズと人気タレントの力だよりで、
ギャラが出てるとか出てないとか、黒い噂まで立つ始末。
言わずもがなだが、火の無いところに煙は立たないよ。
そもそもチャリティーを標榜するなら、番組に関する全ての金銭収支を公表するぐらいの気合が欲しいよね。
ロハでやってみせろや。


まぁ、そのことは脇に置いておくが、
そろそろチャリティーって大々的な看板を下ろしても良いんじゃない?と思うわけです。素晴らしい番組を作るためには、邪魔な看板じゃない?
上記のマイケル・ナイマンじゃないが、素晴らしい番組を提供せずに、チャリティーって看板を金科玉条の如く掲げることで、
お茶を濁しているように感じるわけですよ。
企画物で障害者とか担ぎ出して、山登らせたり泳がせてみたり、過剰なお涙頂戴的な演出が鼻につく。食い物にしてないか?


感動要素を排除してチャリティーできないの?
チャリティーを前面に打ち出さない、チャリティーって無いの?


ある程度、正常な感性を持っている人ならば、感動と同時に哀れみや優越感などが入り混じる放送内容だってことに気付いていると思うのだが・・・。
番組のためのチャリティーじゃなくて、チャリティーのための番組作りの方法ってあると思うのだが、そんな捩れを何故正せないのか。


まぁでも、深夜のバラエティコーナーは色々と面白かったですけどね。


話題の軸を若干ずらすが、
演出された感動の場面って、幻滅するよね。
映画でも演劇でも本でも・・・とにかく世の中のあらゆる表現活動において、
私の好きな「感動するシーン」ってのは、日常の舞台に控え目の感動調味料だけで成立している。
年を取ったから私の趣向が変化したのか、小さい頃からそうだったのかは私自身にも良く分からないが、
ここ数年の感動のツボは、日常、だ。
これは学生活動でも感じたことなんだが、
演出された感動の場面ってのは、自己満足以上の境地に達することが出来ないのではないか?とね。
色々なものを見て、そう感じるわけです。
泣かそう泣かそうと演出され誘導されそうになると、急にブレーキがかかっちゃう感じ。特にテレビとか・・・。


さっき上で映画とか演劇とか本とか、って話題の振りをしたのだが、
古今東西の感動する名作ってのは、過剰な演出はされていない、と私は勝手に思っている。
(もっとも、表現手法としてそれらの媒体は、まさに演出そのものなので、全く無いとは言わないがね)
あ〜、つまり感動しようと思ってそれらを見るのではなく、見ていたら感動する、ってことなんだと思うんだよねぇ・・・。


学生活動の話に戻るが、あれこそまさに、感動の演出をすることにより、素材の持ち味を完全に殺すケースだよなぁと思うわけ。
そりゃあ、色々な思いや辛いこともあり、それこそ人生の一部分を投資してまで必死になってやることだから、
しっかりやってきた人達ってのは、感情が破裂するってのは十二分に理解しているつもりだが、
それを全員で共有しよう、とか、最後に記念だ、とか言われちゃった日には・・・。
潔くないというか、そんなことしないと感動できないのかぁ・・・と思っちゃうわけです。


個人的に思う感動ポイントってのは、日常の中の非日常、あるいは、非日常の中の日常、だと思うわけ。
どちらも表裏一体だから、非日常を日常と置き換えることも可能だけどね。
その境界線を移動する時に、琴線をガツンと殴られるんだと思うよ。
少なくとも私は、そいういった、さりげなさ、というものに、感動の種は埋まっていると、そう思うわけ。


だんだん話がとっちらかってきたのここらでやめるが、こんなことを週末のテレビを見ながら思いました。