サマーウォーズ見てきた+α

世間では雨が大変らしいが、盛岡は意外と普通。そんな今日この頃皆様如何お過ごしでしょうか?今日はしがない爺です。


このたびの豪雨で主に西日本で多くの方が無くなりました。
ご冥福を祈りつつ、今後対策が進むことでこういった被害が少なくなることを願っております。


本日見てきた映画は「サマーウォーズ」。 http://s-wars.jp/index.html
端的に一言、こりゃあ面白い。予想の5倍面白かった。
別に期待して無かった訳でもないけれども、予想よりあっさりと上を行かれた感じ。
今年はエヴァ破も見れたしサマーウォーズも素晴らしい作品で、個人的にはアニメ映画奇跡の年、とでも呼んでおこう。


特にネットシステム描写は最高。
これを体感できるWebシステムになったら、きっとWeb3.0って呼ばれるんだろうなぁ、と妄想。
言葉で説明し辛いほどの、システムの直観的な描写は新たなアニメ世代を生み出し、
将来の技術者のイメージのフォーマットになりそうだなぁと感じた。ガンダムがそうであったように。
もっとも、ガンダムは主役でありその存在感が薄れることは無いのだが、
この映画におけるネットシステムは「インフラ」という扱いであるが故に、後半は(良い意味で)存在感を消し、インフラとして世界観を補強し黒子に徹している感がある。


このネットシステム描写を最初に見た瞬間に思い浮かんだのが、村上隆という名前である。
デザインか何かで関係しているのかと思い、公式HPやWikipediaで調べてみるが名前は無い模様・・・。
不思議に思って「サマーウォーズ 村上隆」で検索してみると、以下の対談がヒットする。

映画「サマーウォーズ」対談(下) 細田守監督×村上隆氏*1


上記の記事中にさりげなく出てくる映像作品名「SUPERFLAT MONOGRAM」*2こそが私のデジャブ感の源泉のようだ。
作品名で検索すると色々と動画が出てくるので各自でチェックして欲しいが、はてなの機能確認の意味も込めて貼ってみる。
D
※これで一応、アカウント持って無くても見ると書いてあった。成功しているのだろうか?


この作品で、主人公と謎のキャラクターが飛び回っている仮想空間概念こそが、そのままストレートにサマーウォーズの演出につながっているように感じる。
(一部では細田監督のデジモンアドベンチャーと比較する人も居るみたいだが、私はデジモンを全く見たことが無いので良く分からん)
また仮想空間を司っていると思われる、空間内の中央の構造物も類似性が多くみられて大変興味深い。


話が遠回りになったので強引に戻す。


この映画を見て強烈に去来する感情は、郷愁でありノスタルジーである。
田舎・親戚・夏・冒険。。。
「夏」「冒険」というキーワードはよくよくありがちで、思い返してみれば「時をかける少女」もこの2つは入っている。
そういった意味でこの映画を一番特徴付けているキーワードは「田舎」「親戚」である。
悪く言えば「陳腐である!さんざん表現され尽くしたテーマだ!」などと言われそうだが、それが鮮烈に印象に残るのは何故だろう?
端的にいえば、無い、からである。
存在しないが、しかし文化的には多分にその影響下にあるおかげで郷愁を感じるのである。
核家族化が進行するなか、拡大家族に付きものだった代名詞である田舎・親戚は遠い過去の物になりつつあるが、一方で文化的には幾重にも織り込まれ染み込んでおり、明言されなくても大きな影響下にあるのだろう。
こういった主張をする背景には、私自身が拡大家族→核家族への変化をここ15年で駆け足に経験したからである。
何人かの知り合いはご存じのことと思うが、私は家庭の事情により田舎や親戚という実在から突如切り離された存在である。
しかし切り離された一方で、お盆などは時期をずらしてお墓参りに行くなど、文化的には大きく影響を受けている。
実体験することの出来ない事象・対象でありながら、「墓参り」という強烈にその存在を意識せざるえないような行動は、大きく捻じれている。
その捻じれこそが強烈な郷愁感を生みだすバネのような存在のように直感した。


そして、この強烈な郷愁感は現代の多くに人に多少の違いはあれど去来するのではないか?
特に若い世代で都会的であればあるほど、感じるのではないかと予想している。まぁ田舎に住んでいるので予想しか出来ないが。
(生まれた時から東京に住み、都会で育ち・死んでいくというのは、どういう感覚になるのだろうか・・・・?すごく興味がある)


この存在しえないような「理想的な郷里」こそが、この作品をここまでのレベルに引き上げる大きな土台となっていることは間違いない。


と色々と分析してみたが、そんな細かい話は抜きにしても非常に面白い作品だった。
テンポ感・内容の分量・キャラの配置・ストーリー、どれを取っても一流作品だと思う。
普段アニメ映画を見ない人でも十二分に楽しめるだろうし満足できるだろう。
(そして何よりIT関連の人は、ネット表現の部分だけの為にお金を払う価値があると確信している)


こんな作品をアニメで見ることが出来てしまうんだから、そりゃあ実写は興行成績が悪くなるよって思った。
実写映画では様々なメリット・デメリットがあるが、少なくともアニメでも演技と演出*3は十二分に可能であると証明していると思うし、
昨今の実写映画はCGバリバリだからアニメ的であるとも言える。
アニメ的実写映画と成り下がった作品が、本家のアニメに敵う訳も無いだろうと思う。(でも面白い実写も有るけどね)


でもちょっと(いや出来が素晴らしいだけに、かなり?)残念だったのは声の問題である。
ご多分に漏れず?昨今の流れを受けて、声を声優ではなく俳優が多く当てている。
これは非常に悪い流行だと思う。
俳優が声を当てると、どうしても声が浮いて聞こえるんだよね。
これはキャラと声が乖離しているから感じるのだろうと思う。
通常、アニメではキャラが強烈な印象を与えているので、声優はその印象を増幅する装置として機能している。
(増幅装置というイメージは、例えば地上波版とOVAなどで声優が違っても、慣れていない違和感を除けばキャラそのものの本質は変わらないことから)
そして、自分ではなくキャラクターとして声を出す、ということになる訳だが、そこに大きく俳優と声優の性格の違いが表れてくると考えている。

この図は、適当に演技という行為を分析してみたものである。あくまでも私の主観的イメージなので違和感がある人はスルーで。
人間の行動にはどうやったって意識・無意識が共存している。意識的な行動の上に、無意識であるクセや訛りなどが乗ってくるイメージだ。また、身体行動の結果として声が発生されることもイメージして、体の上の声が乗っている。
声優と俳優の職業的性格の違いの影響を表現したのが下段である。


アニメは身体イメージを提示され、それに乗っかる形で演技する。
この身体イメージは、製作者が意図的に、意識的な演技と無意識的な演技を組み合わせて作りこんでいる。
例えば、「話をしようとする」意識的演技と「話すときは頭をかく」無意識的演技の組み合わせ、といった具合だ。
あるいは会話中のブレスの位置をある程度示唆するような、口などの動きを書き込んでいる場合も有る。
いずれにしても、提供される身体イメージは、意識的演技と無意識的演技が含まれている。


次に声を当てる場合を見てみよう。
当たり前だが、声を出すことそのものも身体的行動の結果である。
発声という行動が身体を使う以上、声を当てる行為は体の演技が透けて見えてくるわけである。
ところが、その声をそのままキャラクターに当てても、アニメの身体イメージ+演技、となって体の演技が冗長になってしまう。
そして人間は想像力を持ち合わせているために、冗長になった部分を敏感に察知して当てられた声と、キャラクターの演技だけの要素とが乖離しているように感じるのではなかろうか?


プロの声優を凄いと思うのは、自分自身の声の演技と体の演技を切り離してしまうことである。
声優本人が映像上で話している時は本人に見えるのに、アフレコした後の作品はキャラクターにしか見えなのである。
これはつまり、ギリギリまで体の演技を消す(あるいは切り離す)技術を持っているということだろう。


これが普通の俳優になるとそうも行かない。
なぜなら一般的に俳優とは役そのものを演じるわけで、その演じる対象には身振り手振りのような行動や無意識の癖などが含まれているからだし、逆にそういった意識・無意識の体の演技が出来ないと、その役から何かが抜けているように感じてしまうはずだ。
日常的にそういった体の演技を行っているならば、上手い俳優ほど体の演技は自然と発動してしまうだろうし、その無意識の部分を消すのは難しいだろう。


この違いが、俳優が声優に向かない理由かな?などと考えてみた。
もちろん例外は沢山あると思っている。
一つは、俳優の自然な体の演技がキャラクターそのもとのマッチしている場合である。
これは主にモブやサブキャラクターに言えると思うが、キャラ自体が身体イメージをあまり書き込まれずにいる場合、俳優の体の演技が適度なスパイスとなり違和感が消える場合である。
もう一つは、圧倒的な俳優の存在感でキャラそのものを完全に食ってしまっている場合である。
この場合はキャラがどんな書き込まれをしていようとも、それを簡単に凌駕して俳優の個性が炸裂すし、独特の不思議な存在感が生まれる。これは大御所の有名俳優にも言える現象かもしれない。
美輪明宏はどう考えても声優としては下手だが、その下手を軽々と超越する個性で独自の存在感を持つ。
若本さんは声優だが、どう聞いても若本にしか聞こえない。でも良い。


そんな妄想を延々と書いてみた。
やべぇ、短く書こうと思って始めたのにめっちゃ書いてしまった。
もうちょっと自重することを覚えよう。

*1:この記事は(上)もなかなか面白い。(下)では国立メディア芸術総合センター(俗称:国営マンガ喫茶という的外れなレッテル)も肯定的に捉えており、この政策の本質に言及してる。本来、こういった国家戦略・政策についての本質的意義が認識されるべきで、このままでは明治期の浮世絵と同じく海外流出や離散、自然劣化、破損してしまう可能性がある。例えばこの政策に反対の人は、黒沢作品の代名詞である七人の侍のフィルムが海外流出しても、それでも文化財保護の必要は無いと言い続けるのだろうか?

*2:この作品の詳細は各自で調べて欲しいが簡単に解説すると、ルイ・ヴィトンの何十周年かのプロモーション用に作成されたもので、村上隆の世界観+モノグラムという組み合わせの映像作品である。

*3:アニメ映画による「演技と演出」という取り組みで革新的だったのは、押井守監督のスカイ・クロラだったと思う。映画評も興行成績も思ったより振るわなかったが、私はあのアニメ映画を非常に評価している。評価の多くは戦闘シーンに注目しており、非アニメ的な演技的描写には注目もしていないようだったし、あるいはその演技的描写そのものをアニメ的ではないと批判している批評も少なく無かった。しかし、邦画好きの私としては非常に高く評価している。詳細は過去に描いたと思うので省くが、引き気味・固定気味の視点から、大きなアクションもなく非常に細かい最低限の演技描写で淡々と語らせるシーンなどは、古き良き日本映画を彷彿とさせる感動を感じたのだ